×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。



東ネパール〜クンブ地方トレッキング
(ネパール) 1975〜76年




ナムチェバザール 1976年1月



 これは1975年〜76年2月8日までの51日間、東ネパールにチムリンタールからクンブ地方に入り、ナムチェバザールを基点に歩いたトレッキングの日誌です。当時は日数もあまり制限が無く、特にトレッキングの為の許可取得も簡単だった。日本人のトレッカーは少なく、バケーションの長いドイツ人、夏休みなのかオーストラリア人、ニュージランド人が多かった。

 東ネパールのチムリンタールからスルケラ峠を越してルクラまで至る間は、殆どトレッカーなど訪れる事のない地域で、民家の軒先で寝泊りを繰り返した。ルクラからナムチェバザール〜エヴェレッストBC方面には比較的トレッキング客が多かったが、あまり立派なロッジなども無く、シェルパや民家に泊まりながらのトレッキングが常識だった。したがって我々のようなビンボートレッカーの食料事情は粗末なもので、殆どを現地調達のその日暮らしのような生活だった。冬季といえども東ネパールの標高の低い地域は暑苦しく、夜は南京虫とノミにさんざん苦しめられる日々。ところがナムチェバザールからエベレスト方面は極寒の世界で、エベレストBC付近では-25℃のツェルトビバーク有りの極端な世界。

 そんな厳しい境遇でもヒマラヤの魅力はそれを遥かに凌駕し、今思えばシェルパの生活に溶け込んだ様な暮らしは楽しい思い出となった。今ではエベレスト街道といえばルクラから上部のコースをさすが、かつてラムサンゴからルクラまで至る8日間の道こそエベレスト街道と呼ばれていた。従ってカトマンズからバスでラムサンゴまで行き、キャラバンスタートして8日目がルクラ、ナムチェバザーるを経てエベレストBCまで6日間、トータル14日間の行程が当たり前だった。今ではルクラまで定期便の飛行機で向かうのが一般的だが、エベレストが初登頂された1953年イギリス隊は、なんとカトマンズから歩いてBCまで向かったと言う。


 山 域 シンプトン峠〜ソロクンブ地域エベレストBC〜エベレスト街道
 山行日時 19751219日〜1976年2月8
 メンバー 佐々木 松島 坂野 戸部 村上
 行 程 1975年12月19〜30日 カトマンズ〜チムリンタール(ピラタスポーター機)シンプトン峠往復
1976年1月1〜5日 ルンフォア〜スルケラ峠(3090m)〜カルテ(ドゥドゥコシ着)
1月9〜14日 ナムチェバザール〜1月13日 ゴーキョ〜〜ナムチェバザール
1月14〜22日 ナムチェバザール〜ペリジェ〜カラパタ往復
1月25〜27日 ペリジェ〜チュクン〜ナムチェバザール
1月29日 ナムチェバザール〜ルクラ〜ラムジュラパス〜トードン〜
2月8日 ラムサンゴ着〜カトマンズ

 

■12月19日 カトマンズ〜チムリンタール〜カーンドバーリー

 0人乗りほどのピラタススポーター機に乗り込み,カトマンズ空港を10:40分に出発し約40分のフライトで東ネパールの入り口チムリンターに到着する。小さな滑走路のそばに民家が立っているだけで空港の施設らしき物は何も無く,実にのどかな農村の風景である。

 タルカリとご飯を干して作ったアルファ米のようなチューラで昼食を済ませ,今回同行したシェルパのペンバ、ノルブに手配してポーター二人を雇った。のどかな田園地帯を歩いていると,どこか懐かしい子供の頃の田舎地帯を歩いているようで落ち着いた気分に浸る。時期的には日本の秋の雰囲気で、何処と無く田舎の段々畑の風景が日本にいる様な気持ちになる。カーンドバーリーの民家を今日の宿泊地とするが,ベッドは2つしかなく,戸部,村上以外の3人は地べたにマットをし敷いて寝る。

12月20日 カーンドバーリー〜ホデバス

 今日はみんなが寝過ごしてしまい7:20分に起床。昨日雇った二人のポーターは18Rsの日当を払う。1100AM頃になってやっと出発。途中にチェックポストが1ヶ所あったがポリスは不在でそのまま通過する。330PMで今日の行動を打ち切りキャンプ地にツェルトを張る。昨日飛行場で買ったみかんはとても甘く,食べていると手が甘みでべとべとするくらいでとてもおいしい。日本にいてもこんなにおいしいみかんは食べたことが無い。

12月21日 ボデバス〜ウルル

 朝、ペンバンルブが作ってくれたモーニングティーで目を覚ます。昨日残ったご飯に卵を入れたおかゆで朝食を済ませてすぐに出発。途中で峠に差し掛かり、展望台にあがってみると北側はるか遠くにマカルーとチャムランが展望できるが,この先はかなり長そうに思える。途中の茶店でロキシーボトルを1本買い求め,柿の種をつまみに呑みながらトレッキングを続ける。230PMウルルに到着し,小屋の前にツェルトを2張り立てる。

12月22日 ウルル〜スゥワ

 6:20AM起床。ツェルトの中は朝の湿気でずぶ濡れになりシュラフも濡らしてしまう。お茶漬けで朝食を済ませ,余ったご飯で昼食のおにぎりを作る。820AMウルルを出発。ここでポーター2人を雇い合計3人にする。1125AMアンバランに到着。途中で道は2つに分かれて下に下りるとアンバラにつき、もう一方に進むとアルンサンゴの橋に着く。竹で編んだだけの35m吊り橋を渡るが、ゆれがひどいく下は激しい濁流が流れていて下を見ていると恐怖を感じる。事実何年かにおきにこの吊り橋から落ちて犠牲者が出ているらしい。

 急な坂道を登りそこで
1本して昼食にマカイ(トウモロコシを煎った物)を食べる。田んぼを横切りオルンコーラの橋を渡ってツェルトを張る。アルンコーラの川岸は標高690Mのためにまだ暖かく,冬でも日本の初夏を思い出させるような気候で蝉も鳴いている。
今日は途中で米を3マナ購入したしたが,カトマンズで買ってきた大切なサラミソーセージを松島が落としてしまい,みんながっかりしてしまう。

12月23日 アンバラン〜ブンキン

 630AMシェルパのモーニングティーで目を覚ます。だんだんモーニングティーが早くなってくる。今日もツェルトは朝露でびっしょりになっていたが,中に竹のフレームを入れたためにシュラフは濡れずにすんだ。朝のラジオからはクリスマスジングルベルが流れていて,こんなヒマラヤの山の中でも何と無く年の瀬を感じて来る。

810AM出発。1時間30分ほど急な坂道を登り,ターレゴンに到着。昼食は焼きたてのサツマイモとバナナで済ませるがとてもうまい。250PMブンキンに到着。今日は民家の鶏を買いタルカリのスペシャルメニューを作る。鶏を絞めるのは松島の仕事でみんなそれを見ているだけだった。カッターナイフで鶏の首を落とした所,なんと首の無い鶏が逃げ出し,民家の庭を走り回りみんなびっくりしてしまった。

 今日は雨が降りそうなので民家に泊リ今後の予定をみんなで協議するが,結局マカルーBC迄行くことをあきらめシンプトン峠までで引き返すことにする。シンプトン峠までは2,帰りは1日計3日分の食料を民家から購入する。

1224日ブンキン〜タシガオン 

 700AM起床。お茶漬けで朝食を済ませ,残りご飯でいつものようにおにぎりを作り,茶店で米,カレー,ロキシー(焼酎のようなもの)3ボトル,ポテト、かぼちゃ、を購入する。ロキシーは飲みながら歩く。今日はカルカ(放牧用の小屋)に泊まる予定だったが,水場が遠いので手前の草原にツェルトを張る。ポーターの一人が今から紙作りの仕事をするために村まで降りていったが、明日の朝またここまで戻ってくるという。かぼちゃのタルカリにロキシーで今日はクリスマスイブ。

1225日 タシガオン〜岩小屋

 我々が目を覚ます前に村に降りたポーターはすでに戻ってきていた。今日の朝は−2℃とそんなに寒く感じなかったが,ツェルトにはびっしりと霜が着いていた。昼頃に洞窟のある広場に到着し、ここから先では水が無い為ご飯を炊いて昼食にする。5:30PM稜線上の大きな岩の下に到着し,ツェルトを屋根代わりにして今日のキャンプサイトにする。昨日より1000M程登ったのでとっても寒く,みんなひどく疲れてしまい、誰も夕食を作ろうとしなかったが,シェルパのペンノルブ一人でタルカリを作ってくれたのにはただ皆が感謝。

12月26日 シンプトン峠往復〜岩小屋

 早朝に目を覚まし、カメラを持って稜線を駆け上がる。35分ほど登るとマカルーの見えるピークに到着したが,シンプトン峠はまだこの先かなり遠く、今回は残念ながらここから引き返すことにする。尾根のてっぺんに登ると遠くにカンチェンジェンガ、ジャヌーが見渡せる。ジャヌー北壁が見えるが、ほとんど日のさすことの無い壁で傾斜もかなり急に見える。昼食にラーメンを作りその後今日のキャンプサイトの岩小屋まで戻る。

12月27日 岩小屋〜ブンキン 

 今日は帰りの為か、ポーターは朝から休みなしで飛ばして我々より先行して行く。我々はそのような事はまったく気にすることも無く、途中でバナナを50本ほど購入してついでにロキーを呑みながらのんびりと歩く。1230AMブンキンに到着。今日は日本から持ってきた大変貴重なジャワカレーをつくり、贅沢な昼食とするが大変にうまい。今日は民家に泊まるが、なにやら夫婦喧嘩らしく夜中まで騒々しくてとても寝られたものではない。おまけに南京虫に体中をやられてとても痒い。

1228日 ブンキン〜シュテム 

 315PMシャルルに到着。ソロクンブから連れてきたシェルパはここで解雇してポーター2人だけ残して94Rsを支払う。

12月29日 シュテム〜ヤプー

 ポーター2名へ賃金を支払い、野菜、薪、卵、ドコ(荷かご)を購入する。800AM出発。途中でバナナ、ミカンを購入し、たらふく食べて満足する。いつもの癖でチャンを飲みながら歩くが、水っぽくてうまくない。400PMヤプー到着。今日は鶏が手に入なかったが、野菜たっぷりでうまいタルカリが出来て、みんな腹いっぱいに食べて大変満足する。今日も民家の床にマットレスをして寝るが、今度も南京虫に背中をやられてひどい目にあってしまう。

12月30日 ヤプー〜ディングラクルーン

卵が手に入ったので今日の朝食は卵入りおじやにして食べる。750AM出発。330PM ディングラに到着。道はここで2つに分かれ、右に行けばナムチェバザールまで1週間、左に行けばディングラまで6時間。民家に泊めてもらい、鶏を購入して贅沢なタルカリを作る。

 12月31日 ディングラクルーン〜ルンフォア 
 
 
朝8:00に出発してイルクワコーラに沿って道を進む。シェルパもポーターも道を知らないらしく、道を聞きながら歩いて行く。途中の部落で米、チューラを買ったついでにライスチャンを仕入れて呑むが旨い。調子に乗って呑みすぎてしまい、少し酔っ払ってフラフラしながら歩き出す。この地域はチェトリでもカーストの低い部族で、その為チャンが呑めるのだそうだ。道は川沿いに沿って進んでゆくが大きな部落は無い。大晦日の今日はルンフォアで鶏を購入し、豪勢なフライドチキンにして夕食にする。スンタラ(スモモ)は今日の宿泊先の家の前になっているものを30個、4Rsで購入して美味しく頂く。ここでもライスチャンがあるのでまた買ってしまう。今日の献立はタルカリ(ポテト、青野菜)で年越しをする。

1976年1月1日 オグラフェ〜ペティ (ノートに記載なし)

1月2日 ペティ〜サーナム

 

 朝5:20に起床して6:35に出発。いきなり急な石段をいやというほど登らされ、1時間の間に500m程高度を上げる。(2075m) さらに6時間ほど歩き続けると3450mの峠に到着するが、標高差1900mを6時間半で登った事になる。カルカ(放牧小屋)が点々としている道を通り過ぎると次の峠に到着し、沢沿いに2時間ほど下って行くとゾン(ヤクと牛のあいの子)を放牧しているカルカに到着する。ここでバターを購入したついでにミルクを飲む。1杯2Rsとぼられてしまったが新鮮で旨かった。

1月3日 サーナム(2835m)〜クデェルブンム(1775m)
 
 
川沿いに一気に下って行くとと途中で大きな部落を通過してさらに600mほど下り、途中の部落で誘惑に負けてしまいロキシーを呑んでメロメロになって歩く。急な坂道を喘いで乗ってゆくと今日の宿泊地のブンムに到着する。ついつい調子に乗って呑みすぎてしまい殆ど記憶がない。ペンバが民家を見つけてたので今日の宿泊先はここに決まった。この辺はナムチェバザールに近づいてきたので物価が高めで、米が1パテ(5Kg?)25Rsはする。

1月4日 サーナム〜スルケラ峠 (3060m)〜ガイカルカ

 
朝はミルクティを飲んだだけで出発する。トラバース気味の道はやたらと長いが、昨日と比べるとアップダウンが少なくて楽な1日。スルケラ峠を越えると雪が出て来てスリップし易くなる。今日は1日中曇っていて視界がなくつまらない。今日は貴重なおしるこを作ってみんな飲んだ。
 
1月5日 ガイカルカ〜サットラ峠〜カルテ(2690m)

 
ガイカルカのシェルパの家を8:15に出発し、川岸までい一気に500mほど高度を下げる。今度はつり橋を渡ってから急な坂道をハイペースで登り返す。どうやら朝の食べすぎが原因らしく腹が痛い。12:30に峠に到着すると周りは霧氷が付いていた。峠を下る途中でイギリス人カップルと遭遇したが、このトレッキング中で始めて会ったトレッカーだった。彼らは我々が来た道を逆に辿り、東ネパールのダーランまで行くと言っていた。流石に冬の時期の当地は急に寒くなってきたが、短パンで平気で歩き通す彼らは不思議に思えた。今日の予定はエベレスト街道に出ることで、長ったらしい尾根をダラダラ下るが中々到着しない。1:30PM、ようやく念願のエベレスト街道のマカルーホテルに到着した。1杯1ルピーのミルクティはさすがに高いが旨かった。ここからは急に往来の人が多くなり、ラムサンゴから歩いて来たトレッキング客も何人かいた。

1月6日 カルテ〜シュルケ(ノートに記載なし ロキシーを8杯呑んだ)

1月7日 シュルケ〜ルクラ〜ジョサレー (ノートに記載なし ルクラで二日酔いがひどい)

1月8日 ジョサレー〜ナムチェバザール (ノートに記載なし)


 4:30PMにナムチェバザールに到着し、ハクパ・テンジンの家に泊まる。ジャビアン(1975年 アンナプルナ・サウス隊のコック)の作った味噌汁が実に旨い。ここは今回同行したペンバ・ノルブ(アンナS隊のサーダー)の家も有り、大歓迎にすっかり甘えてしまい、この先のトレッキングの基点としておおいにお世話になる事になる。

1月9日 ナムチェ〜シャンボチェ〜クムンジュン〜ナムチェ

 素晴らしく立派なエヴェレストビューホテルに立ち寄ったものの、ビンボー人の我々は4人で9Rs(ポット)のミルクティを味わい、さっさとナムチェのペンバ・ノルブの家へと引き返していった。

1月10日 ナムチェバザール〜テシンガ〜タンボチェ      
 
 
今日は週一度のバザールの開かれる日で、チベットから1週間ほどかけてやって来たチベット人の姿が多く賑わっていた。エベレスト街道方面からはタマン族?が野菜類、米などをドッコ(背負い篭)に詰め込んで上がって来ていた。11:15AMにナムチェを出発して15:30タンボチェに到着してロッジに入る。有名なイエティの頭皮を見物しようと訪れたが、べらぼうな拝観料を請求されて諦めた。すっかり金儲けに走った坊主サンのようで、少し高飛車なところが癪に障った。

1月11日 タンボチェ(3840m)〜ポルッエ(3820m) 

 ラーメンを作って食べたが物足りなく、ツァンパに砂糖を混ぜたものを食べる。子供の頃に食べた記憶のある「麦焦がし」と同じものだが結構旨い。今日はゆっくり9:20AMに出発し、11:20AMポルッエに到着する。明日はナラに楽に到着できるので、今日はペンバ・ノルブの友人のシェルパ家に泊まる。このシェルパはかつてヒラリーと共にタムセルクに登頂し、その後マカルー登山隊に参加してC5まで登ったという。昨年のニュージーランド隊のジャヌー北壁に同行してC3まで達したが、隊員はC6を作ってルートを伸ばしたが結局断念した。(この年、山学同志会隊が同ルートを初登攀した)
 
 今日の道はタンボチェ寺院の裏側を降りて行き、イムジャコーラの橋を渡って急な斜面をトラバース気味に登り返してポルツェに到着する。今日は半日の休日となってしまったので、一人で高所順化をを兼ねて裏山を1時間10分で700m登り4520m地点まで達する。うかつにも下山途中にコースを誤ってしまい、岩場のクライムダウンを強いられて苦戦してしまった。
 
1月12日 ポルツェ〜ナラ

 
朝食はチャパティにやたらと甘いンド製のジャムとバター。コースはポルツェ部落からトラバース気味に高度を上げるが、急な坂道に差し掛かってから中々距離が伸びず目的地に到着しない。道は広くて歩きやすく途中のカルカで一休みしながら歩いて行くと、タウチェ峰が近づいてきて手が届きそうに感じる。昼食はツァンパだけでは流石に物足りなく、途中で買い込んだ貴重品のビスケットを食べながら歩く。しかしインド製のこの代物はパサパサして食べにくく、何か紙でも混じっているような変な味がしてまずい。まるでヤギの食い物か?
 
 道はドゥドゥコシの左岸をしばらく行くが、ナラの手前で150m程下って川岸に達する。道端脇になっているオレンジ色の果実を食べてみるが、味は梅干のようにすっぱいがなんとか食べられる。ここ4200m地点辺りからかなり疲れが出てきたが、2;10PMナラのカルカに到着。夕食は味噌を使ったスイトンを作り、美味しいミルクティーでお腹を満たす。カルカには小屋番のシェルパがいたが、ナムチェバザールに伝わるイエティの話を聞く。

1月13日 ナラ〜ゴーキョ(4760m)〜ナラ(4390m)

 
朝食はジャガイモをボイルし、ヤクのミルクから作ったのバターにチリパウダー、岩塩をまぶして食べたがこれが実に旨い。大きさはピンポン玉ほどしかないが、透明感があって日本のジャガイモとは違った美味しさだ。この辺の標高4000〜5000mの畑で取れるようだが、アンデスのジャガイモの原種のような物なのだろうか。今日はゴーキョを往復する予定なのだが、村上は調子が良くないのでカルカに残る。出発が9:00AMになってしまったが、真冬という日の割には天候に恵まれ、風も無いのであまり寒さを感じることもない。
 
 カルカを出るとドゥドゥコシの木の橋を渡り、左岸の暖傾斜の岩壁の下をトラバース気味に進んで行く。広い氷河の谷をモレーンをアップダウンしながら進んで行くと、見覚えのあるチョウユー(8210m)が見えてきた。11:00AMにゴーキョに到着するとゴーキョの湖は凍結しており、氷の割れる音がギシギシと響いて不気味な感じがした。ここで全員でチョオユーをバックに記念写真を撮り土手のようなピークに登る。残念ながらギャチュンカン
(7,985m)は頭しか見えないが、遠くチョウユー、ゴジュンバカン(7.646m)が良く見える。

 一人村上の待つナラに引き返し、ポーターのビレが作ったジャガイモのパンを食べるが旨い。カルカでソナム・テンジンという老いたシェルパに会ったが、彼はかつてシンプトンと共にエベレストに3回同行したという。その中の最初はチベット側のロンブク氷河(カリンポン経由)からの登山隊だったらしい。協議の結果、明日はポルツェまでの予定を変更し、ナムチェバザールまで2日分を飛ばして戻ることにする。夕食は味噌ラーメンだったが、スープはともかくナムチェで仕入れた中国製の乾麺はモソモソし、何か味もくどくてすぐ飽きてしまう。やはり日本製のインスタントラーメンは偉大だ。 
 

1月14日 ナラ〜ナムチェバザール

 
ポーターのビレは朝4時から朝食の用意で忙しい。今日の行程は2日分あって長いので出発を早める。朝食はライスにオムレツ、スープそれと漬物だが、P釜を使わないと米は旨くたけず芯が残ってまずく、誰もおお替りをしない。7:45AMに出発し、道は往路と同じドゥドゥコシの左岸を行き、ポルツェからおりて橋を渡り、急な斜面を登り返してからトラバースを続ける。途中でニュージーランド人のトレッカー2人に会ったが、氷点下15℃位というのに短パンスタイルで平気で歩いていてびっくりした。彼らはどういう人間なのか解らないが、我々のような粗食人間と違い、食べ物も違うし食べる量もきっと違うのだろう。

 昼飯は梅干入りのおにぎりだったが、ボソボソ、パラパラでとても食える代物ではなかった。挙句の果てはポーターのローティ(トウモロコシで作ったパン)と交換する始末だった。ドウドウコシの橋の袂はびっしりと氷が張り付き、すっかり日が陰ると何処を見ても寒々しい真冬の様相だった。午後の登り返しは
がだるくて辛く、途中ですっかりノドが乾いてしまう。ようやく3:35PMにナムチェに到着。ポーター、シェルパのペンバの給料の支払い、シュラフ、ジャケット代その他の精算で忙しくなる。  

1月15日 ナムチェ stay

 戸部と村上の二人はトレッキングを終了して帰国する為、27日間のトレッキングはここで終了することになる。昨夜は缶入りのパンケーキを食べながら、この1ヶ月間の日々に話が弾む。日本に帰る二人はいかにも楽しそうな様子だった。佐々木、松島、坂野の3名は引き続きトレッキングを継続し、ルクラに向かう二人とはここで別れることになる。ビスケット、チョコ、飴などを差し入れてもらい、シェルパの家の外で再びカトマンズに向かうペンバと共に、お別れの儀式となるカタを掛けてもらう。これはシェルパがしばらく家を空けるときのしきたりなのだ。

 荷物の整理が終わると、ペンバ、ジャミアンの家族全員が出て来て記念撮影を行った。9:30AMにルクラに向けて出発し、残った3人は途中まで見送りに出る。二人はペンバと共に今日はルクラまで下って行く事になる。ナムチェの部落を過ぎエベレストの見晴台で別れ、2人が居なくなるとと急に寂しさを感じる。

 見送りを終えてゆっくりナムチェに向かって引き返すと、途中で明治大学大学院生の斉藤さんと再会する。彼は単独でナムチェにやってきて、「蕎麦の研究」をする為に暫くクンブ地方を旅するとの事だった。彼は明治大学山岳部のOBの方だが実は無類の酒好きの様で、会った時にはチャン、ロキシーを飲み続けたようで、昼間からすっかり酔っ払っていた。彼も私らと同様に明日タンボチェに向かい、ローツェのBC方面へ一人で向かう様だった。我々もすっかりこのペースにはまってしまい、途中の茶屋でチャンを飲み出したら止まらなくなってしまった。彼とは今度ローツェのBCで再会する約束で別れ、我々は滞在先のシェルパの家に引き返す。

 すっかりへべれけになってジャミアンの家に到着すると、さらにトンバ(発酵した麦にお湯を注ぎ、竹のストローで酢って飲む甘酸っぱい酒)を作ってくれっる様に頼んだ。調子に乗って呑んでいると腹の中でさらに発酵してしまい、気がついた頃にはベロン、ベロン状態という事になる。

1月16日 ナムチェ〜タンボチェ 

 
シェルパの家で朝食はツクパ(うどんの様な麺)を作ってもらう。ヤクの臓物入りだがこれが結構旨いので、ついついお替りを3杯してしまう。家の中は我々と3人使用人の二人だけでガランとしている。食事代、砂糖代を支払いタンボチェに向かい10:30AMに出発。ゆっくりとナムチェの坂を登り始めると、一人の日本人がビスケットを食べていた。昨日ナムチェで会った人でジャムとビスケットを分けてもらう。

 一緒の先の茶屋まで行くと、昨日会った明治大学の斉藤さんに出会った。我々もツァンパにミルクティ2杯で昼食を取り、元気に出発して1時間半でタンボチェに到着する。ロッジには二人の若いニュージーランド人がいたが、彼らはラムサンゴから通常は12〜14日間かかるコースを飛ばし、ナムチェまで7日間で辿りついたと言っていた。彼らは今が夏休みらしく、ヨーロッパを廻ってネパールに入ったと言う。

1月17日 タンボチェ〜ペリジェ

 パンケーキ2枚とツクパで朝食を取り、出発してから1時間ほどでパンボチェに到着する。途中まで一緒だったニュージーランド人はとても強く、付いて行く事が出来ず引き離されてしまう。途中のシェルパの家に上がってお茶を飲ませてもらったら、この家は知り合いのシェルパのザンブーの家で、聞いてみると家主は父親だそうだ。昼食も朝と同じツクパだったが、日本隊が残していったカツオだしで作った麺つゆは大変旨かった。

 商売っ気のある親父らしく、チベッタンシューズを買わないかと勧められたが、100Rsとべらぼうな値段で吹っかけてくるので無視する。ミルクティは無いのでチベッタンティをご馳走になったが、呑み慣れるとこれも結構旨く感じるようになった。家を出るとアマダムラムの目の前に突っ立ているように迫ってくる。ザックを下ろしてカメラを取り出し、フイルターを取り出してアマダブラムの姿をカメラに収める。道は広くて歩きやすいが、4000mを越えてくると急にかったるい感じで次第にスピードが落ちてしまう。

 川を渡ってディンボチェとの分岐で先行する佐々木、松島に追いつき、急な左岸をゆっくり登りつめると広い河原に出る。ペリジェのロッジ(4300m)に到着してみると、スイス人2人、イギリス人2人、ニュージランド人2人、アメリカ人1人、日本人1人がいて大変賑わっていた。このロッジにはエベレスト、ローツェなどの登山隊が残した登山用具が色々と合って興味深い。殆どはシェルパの支給品を売却した物だが、プロパンガスボンベ、酸素ボンベ、アイゼン、ヘルメット、ピッケル、羽毛シュラフ、ハーネス・・・。不注意で土間に寝ていたスイス人を松島が蹴飛ばしてしまい、ちょっとしたトラブルになったが、今日はみんな疲れたのか夕食後の8:00PMにはシュラフに入って寝てしまった。

1月18日 ペリジェ stay (風雪)

 朝起きてみると積雪は20cmほど有り、まだまだ降り続きそうな気配だった。ガラス窓から明かりが差し込んできたが、相変わらず深々と雪が降っている様子だった。こんな吹雪の日にも関わらず、1人のニュージーランド人がクワンデまで登山靴を取りに戻ると言ってロッジを出て行った。朝食はフライドライス(4Rs)に魚の缶詰を入れて食べるが、飯の不味さはどうしようもなくまともにノドを通らない。

 一日中ロッジでゴロゴロしていると余計な金を使ってしまう。日本製の森永ビスケットが13Rs、韓国製の干しタラが7Rs。この干しタラは日本産のとまったく同じで、塩味ながら柔らかくあっさりしてて結構旨い。ロキシー(4Rs)を頼んで一杯やっているともう至福の時。森永のクリームビスケットはあのインド製とは雲泥の差の旨さで、今日はこの上ない贅沢の日々を過ごす。1泊10Rs他、なんだかんだで40Rs(¥160程)を散財してしまった。

 今日は朝からの雪で上部のロブジェ方面に出発する人は誰もいない。一日中9人が火に当たりながら話をしたり、おのおの本を読んだりしている。カトマンズのホテルから持ってきたブータンの本を読み上げ、ロッジの棚になぜか置いてある日本の女性週刊誌、週間ポストなどをパラパラめくってヒマを潰す。親父の娘のシェルパニは朝早くからの飯炊き、雪が降っていてもポリタンクを持って遠くまでの水汲み、昼は部屋の掃除と忙しい。グータラな我々とはまったく対照的な人間だった。

1月19日 ペリジェ stay 

今日の朝はだいぶ冷え込んで寒く、上部に行くのは朝から諦めてダラダラしていると、昨日靴を取りに下に戻っていったニュージーランド人が帰ってきた。この悪天候の中昨日クワンデからタンボチェまで戻り、一泊して今日このペリジェまで飛ばして来たという。このロッジには2人の日本人が同宿しているが、1人はナムチェで会った明大の斉藤さん。もう1人は20万円の尺八を持ち歩く森さん。斉藤さんは地球物理学教室の大学院生だが、この後はアフガニスタンからイランに抜ける予定と言っていた。ちょうど私達もこの後インド〜パキスタン〜アフガニスタンを目指す予定なので、お互いに情報交換しながらついついロキシーが進んでしまう。

 ヒマな一日はどうしても余計な金を使ってしまうもの。中古の登山用品にどうしても目が言ってしまい、毎日冷やかした親父には本格的に値切り交渉に入る。自分の持ち金は底をついているので、同行の佐々木さんに100RSの借金をしてついつい買ってしまった。ウイランスシットハーネス、ピッケル(ナンガパルバットエクスレーム、サレワ12本アイゼン)計250RS(¥6000相当)で、カトマンズ相場の半値くらいで嬉しい。

1月20日 ペリジェ〜ロブジェ
 

 ようやく雪もやんだ様子なのでロブジェを目指して3人で出発する。もうシェルパは解雇したので3人ともザックの重さが身にしみて感じる。すっかり雪の降り積もった広い河原を進んでゆくと、視界もあまり良くないので道が入り組んで解り難い。後ろから1匹の犬が付いて来たが、さっぱり帰ろうとせずとうとうロブジェまできてしまった。後でロブジェの親父の飼い犬だったことが解った。

 途中でスイス人とニュージーランド人に追い抜かれ、途中のカルカで一休みしているとロブジェの親父がやって来た。ここから先の道はさほど傾斜も無く、比較的登りやすいので苦労は無いがさらに1時間ほどかかった。ペリジェのロッジと比べると実に貧弱な岩小屋のようで、家の中といえども−12℃で暖炉のそばにいないと実に寒い。
1月21日 ロブジェ〜ゴラクシェップ
 

 8:30AM、スイス人2人とニュージーランド人2人、それと早立ちした松島の5名が先行してカラパタを目指す。斉藤さんを加えた我々3人はゆっくりロッジで朝食を取ってから10:00AMに出発。途中で先に出発した松島に会ったが、あまり本調子でないのかナムチェに帰ると言い出して降りていってしまった。3時間ほどしてゴラクシェップのカルカに到着した。斉藤さんのケロシンストーブを借りてココアを作って飲む。カルカは2つあったが中の広いほうにツエルトを張りマットを敷く。ストーブを焚いたツエルトの中は暖かく、外に出るのが億劫になってしまった。

 夕食はアルファ米にカレー粉でドライカレーを作ってみたが旨い。夕方は小屋の中でも−18℃くらいに下がっているが、寒いにも関わらずぐっすり寝られた。

1月22日 ゴラクシェップ〜カラパタ〜ゴラクシェップ

  
カラパタよりエベレスト、ローツェ方面 同じくプモリの南壁が迫ってくる


 7:20AM、寒くて目が覚めると室内は−22℃を指していた。外に出ると-25℃を指しているが天気は良い。8:00AM頃になると日が刺してきて外のほうがはるか暖かい。昨夜ネズミにかじられた中国製の乾麺で朝食とし、スープは醤油にシイタケ、ワカメ、コンブだしで頂く。ケロシンの質が悪いのかストーブの調子が悪く、火力が出ないので食べ終わったのは10:30AMになっていた。11:20AMにようやくカラパタを目指して出発する。途中、雷鳥に似た鳥をカメラに収めてまた登りだす。高所に順応している為か歩き易い道を順調に登り、12:10AM、カラパタ(5630m)の丘に達する。

 ここから俯瞰する光景は雑誌などでおなじみの構図で、エベレストのアイスフォールが対峙して見え、ウエスタンクームからローツェ斜面を経て、サウスコルからエベレスト山頂に至るルートを目で追うことが出来る。すぐ上部には至上最美の山と言われたプモリの眩いばかりの南稜が目前に迫ってくる。対岸のヌプツェは巨大で鋭い三角錐で天を突き刺すような迫力を感じる。ポケットからレンズフィルターを取り出し、面倒なマミヤのカメラに巻きフィルムを装填して周りを撮りまくる。
操作の面倒くさいこのカメラは軍手を脱がなければ操作が出来ない。風はそんなに強くはないがすっかり感覚が無くなり、凍傷になりそうになってかなり厳しい。手が凍えていた為、大事なオレンジ色のフィルターを紛失してしまった。プモリの南壁をカメラに収めようとしたが、気が付いたらマミヤ6×6のフィルムを使い果たしてしまっていた。

 ロブジェに戻ってからの夕食は豪華な炊き込みご飯を作るが、やはりこんな所に来ると日本食がありがたい。夕食後にはすっかり曇って雪がちらついてしまったが、もしここで雪に閉じ込められたらなどと心配したが、意外と雪はやんでやがて星がきらめいて来た。

1月23日  ゴラクシェップ〜ペリジェ 

昨夜はシュラフが濡れてしまってあまり良くは眠れなかった為、それだけ余計に朝は寒く感じられた。7:20AM起床。今日のケロシンストーブは調子が良く、もらったフィーズに手を付けチキンライスにシイタケ飯をごちゃ混ぜにして食べる。あまりたいした中身は入っていないが、腹が減っているとこれでも旨く感じる。3人で2袋ではとても足りず、ナムチェで買ったツァンパをお湯で溶き、残り僅かの砂糖を入れて食べる。

 ツエルトをたたみ11:45AMになってからようやく出発したが、ヤッケも氷付き風雪模様で立ち止まると寒くてしょうがない。途中でアメリカ人と会って立ち話をした以外はノンストップで下り続け、3時間程でペリジェの小屋に辿りついた。すっかり体が冷え込んでので火にあたって暖め、3日ぶりにチャンを呑んだが所良い酔いが早い。高度の為かあるいは疲れている為か、3杯位呑むとすっかり酔っ払ってしまった。韓国製のスルメを買って焼いて食べたが硬くてとても歯が立たず、暫くしゃぶってから噛みこんで喉を通す。どうやら日頃からろくなものを食べていないので歯も弱り、あごの力が入らない様だった。7:00PM頃に外に出てみると空が厚い雲に覆われており、雪も再び降ってきて明日の天候が気にかかった。

1月24日 ペリジェ stay

 8:AM頃になってシュラフから這い出す。隣のオーストラリア人たちはロブジェに行く為出発の準備中だ。昨夜の夕飯が足りなかったのか空腹を感じ、朝食にはチャパティ4枚を食べてお茶を1杯飲んだが足りず、食料袋の中をかき回してユーゴ製のマッショポテトを取り出す。お湯をもらって作ろうとしたが、袋はネズミにかじられて残りは少なくなっていた。仕方なく食料を求めてもう一軒ある隣のロッジを訪れてみたが、お客は誰もおらず留守番役のシェルパニが暖炉の火にあたっていた。お客も居ないと部屋の中は閑散とし、主人はナムチェに買出しにいって留守で、チベッタンティを呑みながらヒマを潰している。ジャガイモを茹でて食べたくなったので聞いて見るがないのでがっかりしてしまう。ペリジェのロッジの前には次のような道標が立っていた。

 ペリジェ(4243m)〜ロブジェ(4930m)まで8km エベレストBC(5300m)まで20km チョオユーまで28km テインボチェ(4412m)まで1.5km タンボチェ(3867m)まで10km

 元のロッジに戻ってみると2人のオーストラリア人が出発するところで、ロブジェに向かう為チャパティ60枚を焼いてもらったらしい。何しろ殆ど手ぶらの様で自前の食料など持っていなかったのだ。しかし我々の様な日本人と違い体つきはがっしりしており、しかもこの真冬に短パン姿というから呆れてしまう。今日の昼食はロッジのオヤジが餃子を作ってくれたが、ヤクの肉にサブジェ(山形で食べる高菜漬けと同じ)が入り、久しぶりの手の込んだ料理は実に旨くありがたかった。なお、凍ったヤクの肉をもらって食べるとこれがまた旨く、昔食べた冷凍のクジラ肉の様な味がした。

 4日間もこのロッジに居るとオヤジとも仲良くなってきたが、ここの奥さんが中々のカカア殿下で儲けが強い。何を売るにもオヤジはかみさんの言う通りに従い、小心者のオヤジは一切口応えが出来ない状態。それによっぽど儲かっているのかSEIKOの腕時計をしており、こんなところの住人で2本も金歯が光っていた。夕食は鍋にジャガイモに高菜の切れ端とヤクの干し肉を入れ、その後米を入れてニンニクとチリ、塩で味付けした、得体の知れないおじや風の代物だった。不味くはないがあまり食い応えが無く、お替わりをしたら6Rsもせしめられた。 

1月25日  ペリジェ〜ディンボチェ

 
夜中に降っていた雪も上がり、朝は雲ひとつない晴天となっていた。今日我々2人はローツェBC手前のチュクンへ、同宿の斉藤さんも単独で先にチュクンへと出発する。しかし、このロッジほど儲かるところも他にあるまい。ペラペラのチャパティが1枚1Rsだがこんなに薄っぺらな代物も見た事がない。登山隊のあまった食料、装備を安くシェルパから買い叩き、手ぶらできた我々の様なトレッカーに高く売りつける。普通のネパール人だったら100Rs札を出したらお釣がないと言うが、まったく困った様子も無いばかりか、夜は金勘定が何よりの楽しみという様子だった。おそらく毎日300〜400Rsくらいの現金が入ってくると思われる。(当時のポーターの日当が15Rs位)

 午前中は天気が良いのにダラダラと過ごしてしまい、昼食のツクパを作って貰ってからお腹を満たし、ようやく1:00PMになってやっと出発する。ロッジの裏からいきなりの急登になり、200m程ズルズル滑りながら登りきると遠くにマカルーを望むことが出来る。そこからトラバース気味に下って行くと目的地のディンボチェだが、20CMくらいの積雪があって村中がひっそりとしていた。チベッタンの訪れるとシェルパが出て来て、ハクパ・ギャルツェンと名乗った。アンナV、ジャヌー、マカルー南壁などのシェルパを勤め、今年はイギリス陸軍隊のエベレストに参加した模様。流暢な日本語を話して親しみやすく、家族は奥さんと2人と子供が1人だけだが我々を暖かく歓迎してくれた。

 ここでボイルしたジャガイモを平らな石の上に載せて、木の棒で丁寧にこねてツアンパを混ぜてさらに良くこねる。ヤクのチーズを細かく砕いて混ぜ、岩塩、チリで味付けすると出来上がり。見ためは何か人間の「お土産」のように見えてイマイチだが、食べて見ると餅の様粘りが有り意外と旨い。子供は2〜3歳くらいだがどうやら小児麻痺の様で口も利けず動くことも出来ない。気温は−10℃くらいだが天気が良いのでぼろ毛布をまとって外に寝かされていた。標高4200mの厳寒のこの地で果たしてこの子は生き延びることが出来るのか?厳しい大自然の中で生き抜く過酷な生活を垣間見た様だった。今夜はここでお世話になり、夕食はワンタッチライスにペリジェで仕入れたハムを入れたポテトカレーで済ませた。標高4000m位の地で取れジャガイモはボイルすると味が良く、シェルパ達にとってはツアンパに次ぐ主食の様だった。

1月26日 ディンボチェ〜チュクン〜パンボチェ 
 
 
 朝食はジャガイモをフライドポテトにして済ませ、お茶はヤクの絞りたてのミルクを入れて呑んだが旨い。この家にザックをデポさせてもらい、昼食のチューラ(干した米)と韓国製の干しタラだけもって9:30AMに出かけた。このローツェ南壁沿いのイムジャコーラは幅の広い氷河のU字谷で、あまり侵食されていないだけに至る所に大きな岩が転がっている。この辺はいたるところにカルカが点在しているが、この時期はまったく人気が無くひっそりとしている。2時間ほどでローツェBC手前のチュクン(4590m)に到着したが、この辺はアマダブラムが目前にそびえ立ち、北壁の真下という様な雰囲気だった。

 奥のカルカには単独で先行した斉藤さんのツェルトが張ってあり、雪の上には足跡が残り荷物もデポしてあった。この先のローツェBCを目指したのか斉藤さんの姿は無く、我々は雪の上に書置きをしてディンボチェに戻ることにした。3:30PMにチュクンを出発して2時間ほどでパンボチェに到着し、シェルパのザンブーの家に厄介になる。久しぶりにたらふくのタルカリを平らげ、大変満足した1日であった。

 ※なお、我々は斉藤さんとはここで分かれてその後カトマンズに戻ったが、結局斉藤さんとは残念ながらその後再会する事は出来なかった。この2ヵ月後くらい後だったと思いますが、斉藤さんがクンブ地方で行方不明となり、場所は忘れてしまったが奥地で後ほど遺体で発見されたと知った。どうやら何らかのトラブルに巻き込まれたらしく、大変残念な結果となってしまいました。 合掌。

1月27日 パンボチェ〜ナムチェバザール 
  

 朝食はシャクパだったが辛くても旨いので3杯も平らげてしまった。10:00AMになってからおもむろに出発し、タンボチェには約1時間で到着した。途中の峠の茶屋でパンケーキを作ってもらい、貴重品のココアに砂糖ヤクのミルクを入れて呑んだら大変旨い。ナムチェへのトラバースコースは長く感じられたが、ようやくパクパテンジンの家に到着するとジャミアンがいた。

 先に下山していた松島と共に、ジャヌーの北壁を目指す山学同志会の大木さんという人も一緒だった。彼は先発隊としてネパールに入り、シャンボチェまで飛行機で飛んで来て、中古の酸素ボンベを求めてナムチェにやって来た。本隊の隊荷は既にカルカッタに陸揚げされ、陸送されてキャラバン出発点のダーランに到着しているようだ。先発隊は3人で、1人はダーランで荷物の見張り、1人がカトマンズでの連絡係り、そして大木さんが酸素の調達係りとなっている。その夜はサントリーオールドを飲ませてもらい、久しぶりのご機嫌な一夜となった。
 
1月28日 ナムチェバザール stay

 大木さんは朝からカトマンズとコンタクトする為に忙しく、手紙を書いた後はシャンボチェに飛行機がやってきたので急いで上がって行った。今日は休養日としてナムチェの部落内をヒマ潰しに廻って見る。中には子供の頭蓋骨で作った器とか、人骨で作ったという縦笛などが無造作に並べられていた。。まったく冷やかしのつもりだったが、中古品店のガリビエールのヘルメット、ボナッテイのカラビナ、シェルパのジャミアンかはらテトラの水筒などを値切り倒して買ってしまう。店の中で2人の日本人と会い、このトレッカーの少ない真冬の時期にも関わらず、ハクパテンジンの家には日本人が6人も集まった。2人の日本人はソ連(タシケント)〜トルコを経由してネパールに入って来た。

1月29日 ナムチェバザール〜ルクラ

 我々3人はルクラへ、そしてここで大木さんと2人の日本人はタンボチェへと別々になる。ジャビアンがルクラのアンツェリンに聞いた所、最近は毎日ルクラに飛行機が来ているとの事なので、我々も期待してナムチェバザールを出発する。途中のジョサレーの茶店(バッティ)でミルクティを呑んだが、何か石鹸くさくて不味く呑めたものではなかった。4:00PMにルクラに到着しロッジに入る。イギリス人、オーストラリア人の2人が居たが、彼らは既にカトマンズへの飛行機代の300Rsを支払った模様。夕食はキャベツの入ったタルカリと、最近はすっかり食べ慣れたネパール米も大変に旨い。

 ※なお、カトマンズに帰った後聞いた知らせは意外なものだった。タンボチェに向かった大木さんはその後高度障害で倒れ、体調が悪化してその後亡くなられたということで驚いてしまった。お会いしたときの印象は私と似て小柄な方で、正確も温和な感じでとても屈強なクライマーには見えなかった。しかし厳冬期の困難なクライミングを通して鍛え上げ、山学同士会での激しいポイント制の厳しい訓練を生き抜いた方であろうと思います。何しろ、当時年間30人位の新人が入会しても、1年後には3人位しか残らないという厳しい社会である。ご冥福をお祈りいたします。 合掌。

1月30日 ルクラ〜パイアン

 今日のフライトは2機と聞いた。チケットを買わないかとやって来たが、300Rsでは高いので150Rsで買うと言ったら黙って帰っていった。ロッジのアンツェリンに交渉してももどうにもならない。飛行機は11:00AMにやって来たが、ルクラから乗る客は6人だけで席は空いているが、我々はまったく相手にされずまもなくカトマンズ目掛けて飛び立っていった。あわよくば200Rsと考えていたが、我々の期待は見事に打ち破られてしまい、飛行機が飛び去ってしまうと残った3人は惨めな姿だった。

 しばらく寝転がって昼寝をして寝転がっていると、隣のガキが立ちションベンをして流れて来る。いかにも金の無さそうな我々は惨めな雰囲気で、昼寝さえもゆっくり出来ない状況。何もしないのに今日は無性に腹が減ってくる。自分は最初からこの先1週間のエベレスト街道を歩くと決めていたが、佐々木さん、松島はかなり悩んでいる様子。なにしろ佐々木さんは今度で3回目になるし、松島はもう歩くのはまっぴらごめんという様子。結局、松島1人だけは明日ルクラから飛行機に乗り、私と佐々木さんは歩いてエヴェレスト街道を行くことに決める。飛行機に乗る松島に余計な荷物を預けて身軽になり、1:00PMになって出発する。

 3時間ほど歩いて峠の茶屋に泊めてもらう。5人家族のシェルパ家の中は狭く、ようやくシュラフを広げられる広さしかない。夕食を頼んだがいくら待っても出来てこない。シャクパを作っているのだが豆を煮込んでから大根を刻んで入れ、硬そうなヤクの干し肉を入れて煮込むのに時間がかかり、その後ツァンパを入れてバターを溶かし込む。最後に岩塩とチリパウダーで味を調えて出来上がったのは3時間後。手間をかけて作ったようだが脂っこくて味がしつこく、貪欲な我々の胃袋でも抵抗感があった。

1月31日 パイアン〜カルテ〜カリコーラ〜マンディン

 
今日は曇りだがもう標高も低いので雪も降らないが、ただあられが降り出すと急に寒さを感じる。ドゥドゥコシの渓にかかった雲も上がり、今日は10:00AM頃から飛行機が飛んでいるようだ。朝食はツアンパを1.5マナ(200g?)位食べると流石にたくさんでたべすぎて旨く感じない。出発して急な登り下りを繰り返し、ドゥドゥコシの激流で深いゴルジュを渡る橋を越えて登り返すまでが辛かった。途中で2Rsもする高いミルクティを呑んで元気をつけ、4:15PMにロッジに到着する。夕食を頼んだが出てきたのは3時間も後で、ついついチャンを頼んだがこれが旨いライスチャン。ロキシーもあったのですきっ腹にはてきめんに酔いが廻る。

2月1日 マンディンマ〜ジュンベシ 

 朝食はチャパティで済ませようと思っていたら無く、しょうがないのでマッカイ(トウモロコシを炒った物)を1マナもらって間に合わせる。ポリタンにチャン(5Rs)を詰め、ロッジを出たのは9:30Amを過ぎていた。夕べの雨で道はドロドロになりヌルヌル滑って歩き難く、一度派手に転んで泥だらけになってしまう。タキシンド峠の下に大きな寺が有り、そこはトレッカー相手のロッジをやっているが、ここには中は広く結構儲かっている様だ。

 昼食はツクパ3杯にゆで卵2個、インスタントコーヒーなど、何時に無く贅沢をしたら7Rsもの大出費。ツクパのスープはチリと岩塩だけの様だがこのチリが猛烈に辛く、青唐辛子を摘んだ指を唇に付けただけでヒリヒリする。間違って目蓋などに付けてしまったらえらい事になってしまう。峠の近くには至る所に矢印の看板が有り、そのとうりに歩いてゆくとロッジに突き当たる様になっている。ルクラまで1週間も掛かるエベレスト街道だが、プレモンスーン、ポストモンスーンの頃は多くのトレッカーで賑わっている様だ。

 この長い街道は3000〜4000Mの峠が連続し、山また山を越える気の遠くなるような行程で、連日1000〜1500mの上り下りを繰り返す。日本だったら南アルプスの主脈を連日縦走するようなものだろう。しかし街道は立派で途中の集落も多く点在し、いろんな変化もあって飽きる事は無い。あまり立派とはいえないがトレッカー相手のロッジも多く、旅人には快適な行程を楽しむことが出来る。

 サルンコーラを亘るところで道を間違え引き返したが、佐々木さんは3年前にも同じ所で間違えたらく、途中で気が付いて戻って時間を大きくロス。道は大きくサルンコーラをトラバースしてサルンに到着し、スンタラ(みかん)3ヶにお茶を1杯呑んでくつろぐ。サルンからジュンベシへの道はまた長く、トラバースコースなので走って下り、4:40PMにジュンベシに到着する。ここのタルカリはほうれん草が入ってなかなか旨い。

2月2日 ジュンベシ〜ラムジュラパス〜セテ

 
朝に目を覚ますとなぜか頭が痛くてめまいがする。耳鳴りもひどくタンが止まらないので、でどうやら風邪でもひいてしまったのかと思った。
しかし食欲だけは衰えずツクパ4杯を平らげてもまだ足りない。今日の行程はチャングマまでの予定だったので、7:30AMに朝食、8:00AMに出発し、長いトラバースの斜面を登り続けようやく峠の1軒のロッジに到着する。誰もいないが大声で呼び出すとようやく出て来て、お茶を頼んでゆっくり休憩する。しかし今日は調子が今ひとつで顔が青く、何時に無く体が重くてペースは落ちて行く。ラムジュラパスまでは1時間と聞いたが2時間かかってようやく到着した。

 この峠は4000mほどあるので30cmの積雪が有り、ジョギングシューズでは足元が冷たくて不快だ。途中でスイス人2人とすれ違ったが、どうやら私達をすっかりシェルパと間違えているようだった。それも無理は無く、顔は真っ黒で薄汚れた身なりのビンボー人はどう見てもシェルパにしか見えない。ラムジュラパスむこうの西側はもっと雪が多くそして道は長く辛いので、今日はチャングマまではとてもたどり着けない。ラムジュラパスを下る時も頭がズキズキし、重い足取りでソロリソロリと下って行き、今日はセテのロッジで泊まる。

2月3日 セテ〜ヘディ〜チャングマ〜トードンン

今日は途中であったアメリカ人に余ったフィルムを売却した。フジカラー @20Rs  コダックカラー @36Rs思わぬ現金収入に気を良くしてしまう。ようやく辿りついたところはトードンのチーズ工場。ここはスイス人が造った立派な工場で、ネパール人がナチュラルチーズを生産し、カトマンズに運んでいる様だった。夜は咳がひどく咳止めを2回飲んだ。

2月4日 トードン stay

とうとう今日はダウンしてしいstayとなってしまった。風邪薬と鎮痛剤を飲んで1日中シュラフの中に居る。一日中どんよりとした曇り空で、後からあられが降ってとても寒く感じる。羽毛服を着込んで暖炉の火にあたったがやはり寒い。出来立てのナチュラルチーズを買い、バターを乗せて焼いて食べると結構食べられる。佐々木さんはあっという間に500gほど平らげてしまった。体全体が動物たんぱく質を要求している様だった。

2月5日 
トードン〜行程不明

 
朝から雪がちらついているので道は滑って転ぶことが多くなる。頭痛は相変わらずひどい。

2月6日 行程不明
〜チソパニ峠

 
チソパニ峠からの下りが長くて辛いが、ようやく川を渡って今日の宿泊地に到着した。目の上がむず痒くて時々痛みを感じる。

2月7日 チソパニ峠
〜?峠

 
この日から目の上が腫れ上がってかぶれてしまい、とうとう右目はあけられずに片目で歩く。涙で見え難く片目で歩いていると遠近感がつかめず、アップダウンのきつい道では疲れてしまい転ぶ。目の上の傷が化膿してしまって腫れ上がり、頭痛と共に最悪の日となる。

2月8日 ?峠〜ラムサンゴ〜カトマンズ(バス)

 5時間の歩きで最終点のラムサンゴに到着。カトマンズ に戻った後、この春ローツェの南面を目指す神奈川岳連登山隊の日本人ドクターに見てもらう。しかし病名は不明で、現地の風土病ではないかと言われた。


※その後もらった抗生物質で1ヶ月間治療して回復したが、結局この時の1円玉くらいの傷が額に残り、今ではかつての勲章のような存在となっている。

 今になって思い出してみると山登りというよりは気ままな旅で、その後2度と味わう事の出来ない楽しい思い出であった。かつての登山隊シェルパはガイドであり旅仲間でもあり、ナムチェでは大事な客人としてもてなしてもらった。商売っ気の強いロッジのオヤジも実は愛嬌が有り、民家でお世話になったシェルパは素朴で我々には親切な人が多かった。今はどうなっているか想像も出来ないが、貧しくても厳しい自然条件で生き抜くシェルパ族の姿を垣間見たような気がした。

 日記は何の変哲の無い日々の断片で、あまり感受性豊かな人間では無かったので、その当時の素晴らしいヒマラヤの情景の描写も感動無い。ヒマラヤ登山隊の末期症状とは食い物の話ばかりする様になる事だとも言われていた。やはり大きな関心は食べ物に関するものだったが、呑んだくれて歩いたトレッキングロードも懐かしい。当時は2ヶ月間もの厳しい登山に失敗して消化不良気味だったが、その反動で思いっきりうっぷんを晴らす事が出来た。その当時はいずれまたネパールに戻ってこれるだろうと思っていたが、現実的には可能性がだんだん遠のくばかり。しかし機会があれば何時か再びと思い続ける日々です。